福岡ひびき信用金庫

金融機関コード 1903

HIBISHIN 100th Anniversary
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村野藤吾について

福岡ひびき信用金庫と村野藤吾

  • 福岡ひびき信用金庫本店

    右後方には市立八幡図書館、さらに右奥には八幡市民会館が見える。いずれも村野氏の設計によるもの
  • 敷地形状を活かしたデザイン


    戦災復興事業の一環としての土地区画整理事業による八幡駅前の軸線(国際通り)に対応して、その軸線の南端を占めるロータリーに面した八幡市民会館、直交する道路に沿う八幡図書館とともに、県道50号線と国際通りに挟まれた扇状の土地に斜めの軸性を持つ福岡ひびき信用金庫本店が建てられた。読売会館・そごう東京店(東京都、1957年/現ビックカメラ有楽町店)や川崎製鉄西山記 念会館(兵庫県、1975年、現存せず)と同様に不定形な土地に建てられている。一人の建築家が都市的スケールでその骨格を形成する建物を建築した事例は稀有である。
    鋭角の角地をさらに二分した軸を中心に、北西側2階にホール、北東側に屈曲する事務棟が配置され、その間の1 階に営業室が配置されている。その結果、事務棟内部から北西側を見ると常に八幡駅と国際通りの軸性が意識され、北東側を見ると皿倉山から小倉側ヘパノラマが広がる。執務空間の屈曲、ホールの軸性により内部空間からでも八幡駅を中心とする都市軸を感じることができることは稀有で貴重な体験である。
  • 福岡ひびき信用金庫本店 ホール棟

    ホールの外壁は交差点側の角の方が高くなっているために、実際よりもホールの奥行が長く見え、大きな建物に見せる効果があると考える。ホールのヴォリュームは、角のスリットによって圧迫感が緩和されている。この手法は八幡市民会館の上部のスリットでも取り入れられており、存在感の強調と、圧迫感の緩和という反対する効果を併存させ、独特な存在感を醸し出している。本建築ではコーナーのスリットの内部にポール状の照明が天井から吊りさげられており、村野が夜間の演出を考えていたことがうかがえる。このコーナースリットは街路を歩く人に親近感を持たせることに成功している。
  • 鉄の町・北九州を象徴する意匠

    鉄の町北九州を象徴する溶鉱炉をおもわせる湾曲した金属パネルの意匠を持つ塔屋は二つの前面道路に平行な軸性を持つことによって、都市計画的な街路構成との関係を明示すると同時に、軸の交差を暗示することによって事務棟の求心性を強調している。
  • 特徴的な窓枠の外観

    村野建築のひとつの特徴として単調な繰り返しによる開口ではなく、特異なパターンを繰り返した開ロデザインがある。類似の手法は、尼崎市庁舎(尼崎市、1962年)、大阪ピルヂング(東京都、1967年)に見られる。
  • 木のぬくもりに包まれる心地よい内装
    営業室は事務棟とホールに挟まれているため、トップライトにより光が導入されている。内装壁は木質パネルで仕上げられているが、驚くことにパネルの継ぎ目は視認するのが難しく、竣工以来40年以上経過するにもかかわらず剥離等の不具合も見られないのは、内装施工業者(高島屋)を遠方から招来して施工させた村野の慧眼のなせるわざといえよう。また、大理石と木質パネルの組み合わせは今見ても新鮮である。壁面を大理石仕上げとすると、圧迫感が出すぎ、また、力をささえる柱が木質の仕上げであるとすると力をささえる柱の表現としては不適切であると考えたのではないかと推察する。


    本店営業部ロビー




    木製の扉

    木製の空調

    村野氏デザインによる掛時計

    本店営業部 全景

    村野氏デザインによる椅子と机
  • 特徴ある窓のデザイン(建物内側より)

    隅々まで配慮が行き届いた窓のデザイン


    吹き抜けになった スリット内側

    塔屋の内部は天井の高い空間になっており、薄いアーチ形状の窓により明る<採光されている。表現としては不適セルなのではないかと推察する。スリット窓はホール外観の圧迫感を和らげ、球形の吊り下げ照明によって夜の外観が演出される。


    塔屋 下部の窓
  • 多目的ホール(中二階)

    ホール内部はシンプルな内装であるが、そのプロポーションとライン照明が空間に秩序をもたらしている。

    ホール棟を支えるピロティ
  • 八幡駅より望む今昔(福岡ひびき信用金庫 本店付近)

    平成9年頃のさわらび国際通り

    現在のさわらび国際通り
  • 村野藤吾という人物

    村野藤吾(1891-1984)
    佐賀県唐津市で生まれ、福岡県北九州市で育つ。1910年、福岡県立小倉工業学校(現小倉工業高校)機械科を卒業後、八幡製鐵所に入社。1911 年から2年間従軍の後、一念発起して、1913年、早稲田大学理工学部電気工学科に入学。しかし、自分の適性を考え、1915年、同大建築学科へ転学。27歳で卒業した。

    1918年、民間建築の設計事務所としては先駆的であった渡邊節建築事務所に入所。在籍中に日本興業銀行本店、ダイビル本館、綿業会館等、装飾の豊かな建築の設計に携わった。村野は渡邊を生涯の恩師として尊敬していた。

    1929年、38歳で渡邊節建築事務所を退所し、村野建築事務所開設。戦中は不遇の時期を過ごすが、戦後1949年、村野・森建築事務所に改称し、その後多くの作品を手がける。

    本パンフレットで紹介した作品以外に、代表的な作品として、「大阪そごう店」(1935年、現存せず)、「日本橋高島屋増改築」( 1952年、重要文化財)、「大阪新歌舞伎座」(1958年)、都ホテル佳水園(1959年、現ウェスティン都ホテル京都佳水園)、「日本生命日比谷ビル/日生劇場」(1963年)、「迎賓館(旧赤坂離宮)改修」(1974年/国宝)、新高輪プリンスホテル(1982年、現グランドプリンスホテル新高輪)などがある。

    また、日本芸術院会員( 1955年)、文化勲章受章( 1967年)、日本芸術院賞、日本建築学会賞など受賞多数。
  • 北九州に建設された村野建築

    八幡市民会館

    八幡駅から南に延びる国際通りの南端に、 皿倉山を背景として鎮座するヴォリューム感のある形態をした会館施設である。茶系の塩焼タイルは宇部渡辺翁記念会館(宇部市、1937年)と共通する。
    福岡ひびき信用金庫本店のホール部の角のスリットと同様に、上下 のスリット及び窓がホール壁面の圧迫感を緩和して、バランスをとっ ている。美術展示室のある直方体の棟は国際通りの軸線に合わせて配置されているように見える。

    ■竣工:1958(昭和33)年
    ■所在地:北九州市八幡東区尾倉2-6-5
    ■用途:ホール、ギャラリー
    ■構造:鉄骨コンクリート造
    ■敷地面積:9,810㎡
    ■建築面積:4,870㎡
    ■延床面積:5,519㎡
    ■階数:地下1階、地上4階




    北九州市立八幡図書館

    予算が限られていたの で、いったん開館したのち未完成部分を仕上げていったといわれている。
    鉄筋コンクリートのフレ ームで区画された部分を面的に鉱滓レンガ(八幡製鉄所の高炉から排出された鉱滓(スラグ)を粘土にまぜて製造したレンガタイル)で仕上げているが、類似の手法は、世界平和記念聖堂(須要文化財、 広島、1954年)や横浜市庁舎(横浜、1959年)でも採用されている。


    ■竣工:1955(昭和30)年
    ■所在地:北九州市八幡東区尾倉2-6-2
    ■用途:図書館
    ■構造:鉄骨コンクリート造
    ■敷地面積:1,557㎡
    ■建築面積:1,536㎡
    ■延床面積:1,536㎡
    ■階数:地上3階






    長年使われてきた八幡図書館と八幡市民会館は、建物の老朽化と隣地に移転する市立病院の敷地拡大を理由に、北九州市は八幡固苦館を平成27年度末を目途に解体、八幡市民会館は同じく平成27年度末を目途に市民会館の機能を廃止したうえで活用策を検討すると発表した。



    小倉市民会館

    鉄筋コンクリートのフレームとタイル貼の壁という構成は八幡図書館に類似するが、ガラスの大開口が列柱の面と重層しており奥行感を醸し出していた。端正なプロポーションとバルコニーレベルの縁側的な空間がどこか「和」を感じさせる。

    ■竣工:1959(昭和34)年
    ■所在地:北九州市小倉北区域内3−1 現存せず


    平和ビル第2棟

    戦災復興土地区画整理事業後の土地に八幡市住宅協会が地権者の土地所有権を留保したまま建設した店舗付き共同住宅であるが、ガラスブロックも使用した涸洒な建物であった。 浴室も完備さ れ、 当時としては先進的な建物であった。

    ■竣工:1954(昭和29)年
    ■所在地:北九州市八幡東区西本町4−1 現存せず


  • 近隣で見ることができる、村野建築
    宇部市渡辺翁記念会館 1937年(昭和12年)

    宇部市の渡辺翁記念会館は、国の重要文化財で、村野建築初期の最高傑作だと言われている。
    同市には、他にも宇部銀行(現ヒストリア宇部)、宇部窒素工業(現宇部興産宇部ケミカル工場本事務所)、宇部油化工 業(現協和発酵バイオ)、宇部興産中央研究所(現宇部興産有機化学研究所)、宇部興産事務所、宇部市文化会館、宇部興産ビルなど、村野建築を数多く見ることができる。
  • 建築当時の秘蔵写真
    工事中の記録が丁寧に残されていることからも本社屋が多大な期待を背負い建てられたことがわかる。昭和46年時点では北九州市といえども低層の建物が多く、本社屋が周囲の環境から際立っていることが竣工時点の写真からわかる。



    昭和44年12月 起工式

    昭和45年4月 基礎配筋工事

    昭和45年7月 鉄骨建方工事完了

    昭和46年4月 完成



    建築当時の設計図

    村野藤吾は本建物の北西側の立面図を営業部建物とホール棟の2つに分けて描 いているが、ホール棟の立面図においては営業部建物部分の概形のみが描かれ、遠近感のある図面となっている。矩形図は、立面・平面詳細図と併記することによってディテールが立体的に把握しやすいように表現されている。



    本店営業部建物 立面図

    ホール棟 立面図

    短形図

    ■竣工:1971(昭和46)年
    ■所在地:北九州市八幡東区尾倉2-8-1
    ■用途:事務所
    ■構造:鉄骨・鉄筋コンクリート造
    ■敷地面積:2,289.17㎡
    ■建築面積:1,229.56㎡
    ■延床面積:7,009.89㎡
    ■階数:地下1階、地上9階(塔屋を含む)
  • 本店新築に際し、村野藤吾氏に設計を依頼した経緯

    友松 伝三
    当金庫(当時の八幡市信用金庫)の初代理事長である友松伝三は、村野藤吾氏と八幡高等小学校の同窓生であり、「小学校時代に村野という秀才がいて、現在有名な建築家になっている」とよく当時の部下に話していた。 本店の新築計画が持ち上がった時、このことが話題に上り「ならばこの際、設計は我が国有数の建築家である村野氏にお願いしよう」となり、役員会で正式に決定されたといわれる。後日談だが、本店新築の噂が流れると、建築家達が次々と訪れ設計の依頼をしたそうだが、村野氏に依頼することを話すと、皆到底太刀打ちできないと潮が引くように来訪者がいなくなってしまったそうである。 当時の吉田理事長と入江専務が、一面識もない村野氏に手紙で設計の依頼をしたところ、村野氏より大阪の事務所に来るよう連絡があり、直接承諾の返事をもらうことができた。本店落成に際し村野氏より「八幡がまだ尾倉といっていた時代、私の父が移り住み、当時村役場の前にあった八幡高等小学校に入学し、この地で成人しました。友松さんは小学校時代の同窓生であり、この縁を伝って吉田さんと入江さんがわざわざ私を訪ねてこられ、設計を委嘱されました。この御眷顧に報いるだけの設計をしなければと思い努力いたしました」とのメッセージが寄せられた。当金庫本店はまさに友松と村野氏の友情の賜物であると言える。
  • 村野建築によせて

    福岡ひびき信用金庫
    理事長
    野村廣美
    昭和46年5月、当時の当金庫の預金緻が200億円、大学卒の初任給3万8千円の時 代に、5億5千万円の費用をかけて現在の本店が建設されました。

    当金庫の規模で、これほど立派な本店の建設は身の丈以上のものであったかもしれませんが、地元に本店を置く地域金融機関としての誇りと使命感がこれを実現させたものと、当時の先悲方の熱い想いに敬意を払わずにはいられません。日本を代表する建築家である村野藤吾氏の円熟期の建築物として、地元の景観美に資することが出来ているとすれば望外の喜びでもあります。

    当金庫のすぐ近くには、八幡市民会館、市立八幡図書館が隣り合うように建っており、三つの村野建築を同時に見ることができる場所は、他所にはないと言われております。残念ながら老朽化と新八幡病院の建設に伴い、八幡図書館は取り壊しが決定。そして、 八幡市民会館は平成27年度3月末をもって使用が停止されることが決定しました。現在、私も役員を務めている「八幡夢みらい協議会」というまちづくり団体で、再活用を願う「八幡市民会館リボーン」運動を発足させ、存続に向けた活動を行なっているところです。 地方創生の時代と言われる今、当金庫は経営計画の新しいテーマとして「創造への挑戦」を掲げ、地域における価値の創造を目指してお しました。北九州市における村野藤吾氏の建築を知る一助となれば幸いでございます。




    北九州市立大学
    国際環境工学部 建築デザイン学科 准教授
    赤川貴雄
    村野藤吾は民間建築を多数手がけていますが、銀行建築としては東京丸の内の日本興業銀行本店(現みずほコーポレート銀行本店)と並んで有名なのが、福岡ひびき信用金庫本店といっても過言ではありません。さらに言うと、本建築の形態的な斬新さは、日本の近代建築史に残る、特徴のあるデザインと高い質を有した建築です。

    丹下健三は主に公共建築の分野で戦後高度成長期の日本建築をリードしてきましたが、村野藤吾は優れた民間建築を設計することによって日本人の日常生活における生活の場面を豊かにしてきました。

    村野建築においては合理性と装飾性が絶妙なバランスを取っており、本建築においても、予算の制約の中で、温感のあるホールと屈折した事務棟という分棟構成が採用され、事務棟における窓、ビロティの柱、営業室の木質内装、塔屋の曲面金属パネルなどにおいて、村野藤吾の実力が存分に発揮されています。これらは総合されて「見たことのない」建築を作り上げており、八幡の地の地域住民、地場企業にかけがえのない、信用金庫の本店の建築として、地域の日常の金融を担い、また見守ってきたのです。

    建築は地域に存続して、日常風景の重要な構成要素となり、そのかけがえのない存在感を獲得していきますが、本建築が、地域に欠かせない民間企業によって利用され、維持されてきた幸運を、この建築を訪れる我々は感謝するべきであろうと思います。

    <略歴>
    1966年:大阪府出身
    1989年:東京大学工学部建築学科卒業
    1989年:(株)竹中工務店入社(~2000年)
    1997年:ハーパード大学デザイン学部大学院アーパンデザイン学科修了
    2000年:モンテレイエ科大学主任研究貝(メキシコ)
    2002年より現職


    ※野村氏、赤川氏の役職については、取材当時のもの。
  • ご協力いただいた方々
    MURANO design
    村野永
    北九州市立大学 准教授 赤川貴雄
    京都工芸繊維大学 教授 松隈洋
    京都工芸繊維大学大学院 助教 笠原一人
    八幡駅前開発株式会社 代表取締役社長 井上龍子
    一般社団法人宇部観光コンベンション協会

    (順不同・敬称略)


    ※記事制作:平成27年3月
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